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長崎の原爆について
太平洋戦争末期の1945年の8月9日11時2分。アメリカ軍によって長崎市内にファットマンという原子爆弾が落とされました。この原子爆弾は人類史上、実戦で使用された二度目の核兵器で、長崎市内の24万人(推定)のうち、7万4千人が死亡し、建物の36%は全焼または全半壊しました。
原爆投下の背景と経緯
1942年8月、アメリカは原子爆弾を開発するためのプロジェクト「マンハッタン計画」を始めます。当初、原爆は戦争を終結するために、ドイツへの使用を第一目的として開発されましたが、原爆が完成する前の1945年5月8日にドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争は終結してしました。そこで日本への使用が検討され始めます。反対意見も論じられましたが、原爆の巨大な破壊力を示すことによって、戦後に優位な立場を築くことなどの様々な目的のため、最終的に日本へ原爆を使用することが決定されました。
アメリカは原爆の投下目標都市を「爆発により日本国民の戦争を続ける意思をなくさせる」「軍の司令部、軍隊の駐在地、軍需工場のいずれかがある」「空襲による損害を受けにくく、原爆の威力や効果がわかりやすい」という3つの基準で選定したと言われています。その結果、17の都市が検討対象として挙がり、最終的にその中から広島、小倉、長崎の3つの都市に絞られました。長崎市が選ばれた主な理由としては、戦艦「武蔵」を製造した三菱造船所やハワイの真珠湾攻撃の時に使った魚雷を造った三菱兵器製作所があったことなどでした。
そして、8月6日に広島に原爆「リトルボーイ」が投下され、8月9日に、アメリカ軍は視界不良のため第1目標であった小倉から目的地を長崎に変更し、原爆「ファットマン」を投下しました。
被害状況
原爆が落とされ、瞬間的に表面温度は3000度から4000度に到達しました。鉄の融点が約1500度であることを考えると、それがどれだけの高温だったかを想像できると思います。また、爆発時のエネルギーが地上のものを吸い上げ、吹き上げ、巻き上げたため、遺体が残らなかった人や跡形もなくなった建物などが数多くありました。きのこ雲はその光景を表しています。
爆心地から1キロ以内の区域では、人畜は爆発圧力および熱気によってほとんど即死し、家屋やその他建物は粉砕または火災により焼失しました。2キロ以内の区域では、人畜は爆風および熱気によって、一部は即死し、大部分は重軽傷を負いました。熱線によるやけどの被害も多数あり、家屋やその他建物もおおむね半壊しました。影響は同心円状に広がっていき、爆風による飛散物や熱線によって8キロ先周辺にいた人まで多大なる被害をもたらしました。
また、原爆の被害は、爆発そのものだけではありません。被爆後も様々な被害をもたらし続けました。原爆による放射線は、被爆直後の発熱や吐き気、下痢などの急性障害だけではなく、その後も長期にわたって様々な被害を引き起こします。被爆から5年ほど経った頃から白血病が急増し、10年ほど経つと、甲状腺がん、乳がん、肺がんなどの悪性腫瘍の発生率が高まり始めました。放射線による健康被害は未だ解明されていないことが多く、自分の健康に対して常に不安を抱えて生きてきた被爆者の方も少なくはありません。今でも数千人の被爆者が治療を受けているというデータもあります。
今も残る跡地
長崎市内には原爆の被害を表す跡地が様々なところにあります。例えば、爆心地から北東に500mほどにあった浦上天主堂(浦上教会)です。1959年に再建されましたが、ドーム状鐘楼の一つが巨大な残骸や熱線で黒く焦げたり、鼻や腕、指がもぎとられたり、頭部を欠いた石像が残されています。
爆心地から南東約900mの高台にある山王神社も被爆によって、破壊されました。山王神社の参道には、一本柱鳥居と呼ばれ親しまれている鳥居がありますがもともとは4つあった鳥居のうちこの鳥居だけが片方の柱を残し今も同じ場所に立っているのです。左片方の柱の残骸は、一本柱鳥居の奥に置かれ見ることができ、また境内には被爆したクスノキが残っています。ちなみにこのクスノキは福山雅治さんの「クスノキ」で歌われたものです。どちらも原爆の脅威がヒシヒシと伝わる貴重な資料です。
復興と発展
原爆が落とされた浦上地区は焼け野原となり、草木が70年生えないだろうと言われていました。壊れた建物の木材などを集めて、小屋を建て始めるところから復興が始まりました。1950年には平和記念公園が建設され、その後の1955年には平和記念像も建てられました。現在では、美しい港町が広がっています。
また、平和活動も盛んにおこなわれており、「高校生平和大使」や「ナガサキ・ユース代表団」など様々な若い世代の活動も注目されています。原爆による被害からの復興を果たした街として、これからの活動も期待されています。